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今も続く「夢への挑戦」 東京オリンピック・パラリンピック、柔道界改革、国際交流に取り組む原動力とは

柔道家、東海大学副学長・体育学部教授山下 泰裕

1984年ロサンゼルス五輪金メダリストの柔道家で、東海大学副学長を務める山下泰裕氏の講演会「夢への挑戦」が11月29日、東海大学同窓会シンガポール支部の招きで開かれた。講演会で幼少期の思い出から、五輪、現在取り組む国際交流活動まで多岐にわたるエピソードを語った山下氏に、話を伺った。

―講演のテーマを「夢」にされた理由は?

子供たちが夢を持つには?という質問をよく受けるんです。確かに、夢を持ちづらい時代になったと感じています。でもスポーツには、子供の夢や、思いやり、友情、折れない心を育む力があると思うんです。今の日本は勝敗を大事にしすぎます。今の若い人たちにとってスポーツは「苦しいもの」というイメージでしょう。しかし、スポーツで生まれる仲間との絆、体を動かすこと、これは勝ち負け以上の価値があります。スポーツをもっと身近にしていくこと、これが、私が進めていかなければならないことだと思っているんです。

―昨年から、日本オリンピック委員会(JOC)の理事も務められています。1964年の東京オリンピック・パラリンピックの思い出はありますか?

当時、小学校1年生でした。毎日学校が終わると日が暮れるまで外で遊んでいたのですが、期間中だけは、テレビにかじりついて試合を見ていましたね。重量挙げで金メダル第1号になった三宅(義信)選手や、東洋の魔女と呼ばれた女子バレーボール、マラソンの円谷(幸吉)選手。彼らの活躍が心に残って、子供ながらにこめかみがジーンとした記憶が今でも残っていますね。

―現在は、2020年に開催される東京オリンピック・パラリンピックを作り上げる立場ですが、どんな大会になってほしいと思いますか?

まず1つは、世界から多数の人々を招くことになります。日本の本当の姿を知ってもらいたい。次に、東日本大震災の時には世界の色々な国に心配をしてもらった。日本が力強く復興した姿を見せられるようにしていかないといけないと思います。さらに、子供も大人も、心の健康は大きな課題。スポーツを通じて、皆が生き生きと、自分らしく生きる社会を目指すこと。そのために、これほどのチャンスを逃す手はないと思います。開催から10年、30年先にこの大会が大きな遺産になるように。日本の若者や国民に、夢と感動、希望を与える大会にしていかなければいけないと思います。

 

―一方、様々な問題が噴出した全日本柔道連盟でも、改革に取り組んでおられます。

暴力、セクハラ、補助金の不正受給。残念なことにいろいろな問題がありました。問題が出てから、私のところに全国の現場の指導者たちから様々な悲痛な声が届いたんです。例えば、「今の状況は、胸を張って『柔道やってます』なんてとても言えない状況です」とか。当時の会長のところに出向いて「暴力の根絶プロジェクト」を立ち上げ、私をリーダーにしてくれと頼みました。その後、暴力は許さないという強い意志を示すため、ポスターをあらゆる道場に貼ったり、様々な啓発活動に取り組んだりしてきました。今では、道場での暴力行為はなくなったと考えています。その後、もっと人づくりにシフトしようと、発足したのが現在行っている「MINDプロジェクト」です。柔道人として恥じない行動をしていこうと呼びかけています。

―柔道界の改革は進みましたか?

残念ながら、世の中からいじめがなくなることはあり得ないでしょうが、いじめにくい世界を作ることは不可能ではないと思います。スポーツでも日常でもフェアプレーをするという意識改革に取り組まねばなりません。取り組むべきは連盟、指導者の意識改革。私にとっては(けがをしながらも金メダルを獲得した)ロサンゼルス五輪でのチャレンジよりも、こちらの方がよっぽど難しい。でも、1人ではないですから、多くの人と心を1つにして、取り組んでいきたいと思っています。組織を良くしていくためにはとにかく皆の力を集めないといけないと思っています。

―NPO「柔道教育ソリダリティー」の国際交流活動について教えてください。

私が30代半ばの頃、病床にあった恩師、東海大創立者の松前重義先生に「日本の柔道を通して、世界で友好を深めてほしい」と言われたことがありました。30代半ばの私には、今のような活動ができるなどとは予想もつきませんでしたが、いろいろな出会いやご縁があって、2006年から、東海大の私の研究室内に、国際交流のNPO「柔道教育ソリダリティー」を立ち上げることになりました。活動のメインはリサイクルの柔道着を発展途上国へ送ることです。国際柔道連盟の加盟国は約200ありますが、その3分の2は貧しい国々です。短パンにTシャツ姿や、1着の柔道着を着まわしたりして柔道をしていますので、大変喜ばれます。指導者や学生ボランティアの派遣もしていて、東南アジアではラオスやミャンマーなどに派遣したことがあります。また、海外から指導者や選手も受け入れています。

―イスラエルとパレスチナの柔道を通じた交流が特に印象的です。

毎年冬の時期、両国の指導者と選手を一緒に日本へ呼んで交流事業をしています。イスラエルとパレスチナの指導者が互いに「母国に帰ったら同じ畳の上に立つということはあり得ないね、考えられないね」と言っています。でも子供たちが大きくなったころには両国の柔道家が同じ場所で柔道ができるような、そんな未来を作りたい、そう願って続けています。

―交流で、心がけておられることは?

活動を通して、和の心、柔の心を伝えることも大切にしています。日本に興味や関心を持ってもらい、正しい認識を持ってもらう。滞在を受け入れた時には、東海大日本語学科の協力を得て選手らに日本語の指導もしています。押しつけではなく、柔道の技やルール、「一本」や「有効」などは日本語なので、皆さん人一倍興味が強いんですね。だから、海外の人には、必ず実技指導だけではなく、講話をします。その中で話すことの1つは「戦う相手は敵ではない。相手がいるから、自分を磨き高めることができる。敬意と尊敬の気持ちを示すために、お辞儀、礼をする」ということ。どんな宗教の方も、納得して礼をしていますね。もう1つは、(講道館柔道の創始者)嘉納治五郎先生の教えにある通り、単に技を上手くかけるとか、心身たくましくなるだけではない。磨き高めた心技体を日常生活や人生に生かし、より良い社会を作るのが大切だということ。強ければいいってもんじゃない。日常生活に生かすということが大事。「道」とはそういう意味ですよということを伝えます。

 

―今も様々な挑戦を続けられる秘訣について教えてください。

現役選手の頃、多くの方々から「過去に何連勝したか」ということを良く言ってもらいました。でも私の関心はそこになかったのです。「そんなの全部過去じゃないか」って。それよりもこの次の試合にどう勝つか、理想の柔道に一歩でも近づくことが大事、そういう思いでやってきました。「こんなもんじゃダメなんだ」。そんな思いで現役時代がんばってきた気がします。もし現役の頃に私が立ち止まってホッと一息ついて、過去を振り返っていたとしたら、ここまでの記録は残せなかったと思います。どこかで妥協したり、満足したりしてしまったかもしれません。今度、私が理想という山を登るのをやめる時というのは、この世を去る時ではないかなと思います。その時に人生を振り返ってみて、「俺ってがんばってきたよな、よくやってきたな」と思える人生を送れたら最高だよな、と。だから今も「夢への挑戦」なんです。