白い壁に濃淡のレンガを配し、水平を強調したデザインの低層建築が連なるティオンバル地区。その一角に防空壕が建設されたのは、第二次世界大戦が勃発した1939年のことでした。日本軍のシンガポール侵攻から73年が経った今でも、ティオンバル防空壕には当時の面影が色濃く残されています。
公共住宅の地下に1,600人を収容できる巨大空間

コンクリートむき出しの天井、赤レンガの壁が迷路のように続く薄暗い空間。漂うカビと埃の匂いに、言いようのない息苦しさを感じます。この防空壕が設けられているのは、イギリス植民地時代にSIT(シンガポール改善財団)によって建設された、シンガポールで最も古い公共住宅団地の地下部分です。ユニークなU字型をした、モー・ガン・テラスと呼ばれる公共住宅に造られた防空壕の面積は、実に1,500平方メートル。最大1,600人を収容できる大規模なものでした。
当時、新聞で報道された計画では「グアン・チュアン・ストリートの第78棟(モー・ガン・テラス)は地階から成り……平時には子供たちの屋内の遊び場として使われる。しかし有事の際は防空壕として利用できる」と書かれています。
実際に防空壕として使われたのは、日本軍による空襲が繰り返し行われた1941年12月から1942年2月にかけての約2ヵ月間で、回数もごくわずかでした。
一般市民が住むティオンバルは、そもそも空襲の標的ではありませんでした。しかし、標的とされた鉄道駅や港から近かったためか、少なくとも2度の爆撃を受けた記録があります。「爆弾で水道管が破裂して、水が2階まで吹き上がった」「当時住んでいたモー・ガン・テラスの近くに爆弾が落ちた」という証言が、冊子「TIONG BAHRU HERITAGE WALK」(国家文化遺産庁(NHB)ほか刊)に残されています。
また、子供の頃ティオンバルに住んでいた故・ニコラス・タンさんの証言として、防空壕の本来の入り口は現在と反対側、グアン・チュアン・ストリートに面していたとのこと。空襲警報が鳴ると入り口が開けられ、はしごを使って防空壕へ避難していたことも伝えられています。
この地域の歴史の共有と保護を目的に活動している、「ティオンバル・ヘリテージ・ボランティア」のメンバーの一人、ケルヴィン・アンさんによれば、戦中に防空壕の中で生まれた人もいたのだとか。「ある女性の父親は、1942年1月21日の空襲の際、民間の防衛ボランティアとして召集され、そのまま帰らぬ人となってしまいました。その日の夜中、彼女はこの防空壕の中で誕生したのです。彼女が、数年前にこの防空壕を訪れた際の胸の内は、察するに余りあります」。
戦前から現存する唯一の一般市民用防空壕

イギリス植民地時代に建てられた公共住宅のうち、内部に防空壕が設置された唯一の例として、また、戦前に建てられたものの中で唯一現存する一般市民用の防空壕として、ティオンバル防空壕は非常に重要な史跡です。
しかし、その存在は長く忘れられ、HDBに暮らす人たちの物置として使われていました。その間、壁の一部が取り壊され、蛍光灯が取り付けられるなどの改修が行われてしまったようです。
そうした中で、2003年にモー・ガン・テラスを含む、戦前に建てられた20棟の建物がURA(都市再開発庁)によって保存対象に指定され、保存のあり方が慎重に検討されるようになりました。
シンガポール陥落から70年を迎えた2012年からは、NHBや、ティオンバル・ヘリテージ・ボランティアによるガイドツアーも行われており、普段は閉ざされた内部に入ることができます。
「シンガポールは、この50年であまりに多くのものが変わりました。この防空壕を含むティオンバル地区を保存することで、残された記憶を語り継いでほしい、そしてシンガポールの歴史の移り変わりを多くの人に理解してほしいと願っています」(ケルヴィンさん)
刻々と変化し続けるシンガポールの街並みの中で、73年前の記憶を留めているティオンバル防空壕。戦争を知る世代が年々減りゆくこの国で、その存在はますます貴重なものになっていくことでしょう。