大戦中の占領下では旧日本軍やシンガポール住民の重要な会議施設として、また、ユダヤ人住民が情報交換したり、援助が必要な人への資金集めの場としても有用されました。1998年に国定史跡として認定され、およそ2,500人の在星ユダヤ人が集う交流の場になっています。
自由と安全を求めて辿り着いた希望の地
彼らがこの地に辿りついた背景には、宗教上の制約や政治的迫害によるディアスポラ(離散)があります。また、スペインやポルトガルにルーツのあるセファルディ系の富豪、デイビット・サスーン氏がジャワ島の砂糖をインドに輸出する拠点を築いたことも追い風となり、自由を求めて新たな定住の地や商機を求めたバクダッドやペルシア地方のセファルディ系や東ヨーロッパからアシュケナージ系(ドイツやポーランド、ロシアにルーツのあるユダヤ人)が続々と集結。宗教に敬虔な民族性から、切望されて設立された当初のシナゴーグは約503平方メートルの広さ(約40人用)で、サウスカナル・ストリートからすぐの現シナゴーグ・ストリートにあったショップハウスに建てられました。1870年代になるとユダヤ人の増加につれ、更に広い場所が必要になります。しかし、政府から土地を譲り受ける許可がなかなか下りず、30年間利用されたこのシナゴーグの売却により、合意にこぎつけます。
この交渉を行い、現シナゴーグ設立に多大な尽力を果たしたメナッシュ・メイヤー卿は、アジアで最も裕福なユダヤ人の一人として知られていました。東部地域にある「メイヤー・ロード」は彼にちなんで名づけられたもの。1861年、15歳の来星時、貧しくも野心家だった彼は、不動産ディーラーとして徐々に頭角を表し、アヘン貿易も手掛け、当時のシンガポールの約半分の土地を保有するまでとなりました。1905年には、オクスレイ・ライズに構えていた住居の隣に、私用のシナゴーグ「ヘセッド・エル(Chesed El)」も設立(現存、大戦中は旧日本軍が仏寺として使用)しました。
メイヤー氏に限らず、ユダヤ系実力者の名にちなんだフランケル・ドライブ、アンバー・ロード、アディス・ロード、エリアス・ロードなどの数々の通りや「ダビデの星」の印がついた建物が今でもシンガポールには顕在です。
平和への糸口は「お互いの違いを尊重」
今日、世界各国から法律や金融、軍需関連事業などに携わるユダヤ系の来星が増えました。「第二次世界大戦時シンガポールにいた約1,000人のユダヤ人は戦後、その多くがオーストラリアやイギリス、アメリカ、イスラエルなどに移住していきましたが、彼らの軌跡は今でも至るところに見られます」と語るのは、当地チーフ・ラビのモルデハイ・アバゲル氏。「シンガポールはマレーシアとインドネシアというムスリムの国に挟まれているにも関わらずアンチ・セミティズム(反ユダヤ主義)のない安全で平和な国です」。これには、政府が人種差別に対して強い態度で臨んでおり、厳しい罰則を設けているという背景があります。
「お互いの違いを認識し、尊重しあうことが大事。世界の平和を心から願っています」(同氏)。
世界各地で紛争やテロが起こる今日、「安全で平和な毎日を送る」ことが全ての人に与えられていないという現状。「世界恒久平和」を願いつつ、シンガポールの歴史を知る建造物は今、この瞬間も時を重ねています。