2015年10月19日
南洋史を映す 日本製のプラナカンタイル
マレー半島やインドネシアには、南洋建築でプラナカン様式ともいわれる間口が狭く奥に細長い家屋のショップハウスが多くあります。1900~1940年代に建てられたこれらの建築物には、海外からの美しいタイルやレリーフ(浮彫)の装飾が施され、戦争や現代化の波にさらされながらも今にそのノスタルジックな姿を残しています。植物模様や曲線で知られるアールヌーヴォー調の絵柄タイルが多い中、鳥や小動物、花、果物などのモチーフをピンクや黄色、ターコイズブルーで彩ったタイルはプラナカンたちが伝統的に好んだデザインで、特に「プラナカンタイル」と呼ばれています。このプラナカンタイルのほとんどが、実は日本で製造され輸入されたものでした。プラナカン文化と日本の知られざる関わりがタイルにあったのです。
プラナカンタイルの故郷、日本
プラナカンタイルのルーツを探ると、近代にイギリスで量産された「マジョリカタイル」で、古典的な植物を華やかにデザインしたビクトリア様式や、ジョージアン様式のものにまで遡ります。20世紀初頭、イギリスで教育を受けたプラナカンの子弟らがその欧州の生活様式とともにマジョリカタイルをマレー半島へ持ち帰りました。プラナカン達は、それらのタイルをショップハウスの戸口周りやバルコニーなどの外装や内装に使用したほか、テーブルや本棚などの家具に埋め込んだりしました。第一次世界大戦後、ヨーロッパでのタイル製造が鈍化し、日本はイギリスからその製造機械を輸入してタイル製造を始めます。淡路島の淡陶社(現ダントー株式会社)や名古屋の不二見焼がその先駆けで、イギリスのデザインを模した多彩色なレリーフタイル、和製マジョリカタイルが誕生しました。特に淡路島では「珉平焼(みんぺいやき)」という焼物があり、伝統的に型を使って立体感のある陶器を制作していたため、その技術も生かされました。
ヨーロッパ製に比べて安価で高品質な日本製のタイルは人気を得て、東南アジア、インド、中国などに盛んに輸出されていきました。一説には、マレー半島からプラナカンのデザイナーが日本のタイル工場を訪れ、シンガポールで人気となるデザインや色合いなどをアドバイスしたのだとか。地域に合わせたデザインの日本製のタイル、これがプラナカンタイルとなったのです。しかし第二次世界大戦が始まると、日本ではぜいたく品と見なされ、生産中止となりやがて姿を消していきました。